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研究員紹介

森菜旺未・副所長

  • <東日本大震災についてのコメント>
  • 3月11日、東日本大震災が起きた時、私はただごとではない揺れにじっと身をまかせ、耳をすまして身体全体で何かが起きていることを実感していました。そして、「大変なことが起きた」という感じが身体を駆け巡り、すぐさま何をすべきかを考えていました。

    私にはこれだけを考える時間の余裕がありました。部屋の中の物が落ちたわけでもなく、周りにも壊れたビルや家があったわけでもなく、ただその揺れの激しさに怯えただけでした。

    同じ地震に遭った東日本の方々は、それぞれのいる場所で今何が起きたのか分らないままに家が崩れたり、津波が襲ってきたわけですからその恐怖は想像を絶します。いえ、恐怖を感じる間さえなかったでしょう。

    こんなことが、起こるなんて誰が想像したでしょうか。地震が起きる数秒前まで、私たちはいつものように暮らしていたのですから。

    被害の違いはそれぞれにありますが、同じ地震に遭った人たちは自然の恐ろしさを共通な体験として、その桁外れの被害を他人事ではないこととして捉えることができました。

    そして、当り前と思っていたもののが、実は当り前ではなかったことを知る事になりました。

    福島原子力発電所から送られてくる電気は、安全という言葉の上に乗って、遠く東京の私たちの生活を支えていました。福島県の方から「東京の人たちが使う電気のために、私たち福島県民が放射能の被害にあっている。今でも東京はあんなに明るく、電気を使っている」と。私たちが普段何気なく、当り前に使っていた電気が原子力で作られていて、この原子力で発電しなければ電気が足りなくなることを考えてみたこともなかったのです。

    たしかに、トイレをみても、自動ドアはドアの前でただ立っているだけでドアが開き、便器でも感知器が働いて便座の蓋が開き、ウォシュレットでお尻が洗え、便器からお尻を上げると水が流れて換気扇が回り、洗面所で手を出すと水が流れ、手をかざせば温風が濡れた手を乾かします。これは便利ということばに誤魔化されて、自分でできることを自動で機械まかせにし、節水ということばに誤魔化されて電気の無駄使いをしていたのではないのでしょうか。

    もしかしたら私たちは、自分で調節したり考えたり行動しないほうがいいことのように思っていたのではないでしょうか。

    皆同じということが、実はそれぞれの違いや特性を切り捨てていることではなかったのでしょうか。

    地震や津波は自然と共に生きてきた日本人にとってどんな悲痛な思いをしても、そこに自然に対する一時的な怒りがあったとしても、原発による人災の悲痛感や怒りとは根本的に違うものなのです。

    自然の災害には、私たちがどうすることもできない大きな力を感じ、それは何らかの私たちへの警告だと捉えることができます。日本に住むということは、暗黙にこの自然との共生だと感じているのです。だからこそ、海辺に暮らす被災した方々が、地面が揺れて、荒れ狂う海が津波を起した同じ海辺にまた住みたいと思い、今また穏やかになった海を見つめることができるのでしょう。

    そこには、絶望のどん底のその下に、ここでまた生きていく、先祖代々受け継いだこの土地で生きて行きたいと思う思いが身体の中から湧き上がってくるのでしょう。

    ところが、原発の被害は全く別物です。政府や東電の説明を聞く人々は、この人たちが真実をいっているのかそうでないのかを疑問に思い、そのことに怒りを感じます。最初から原発が100パーセント安全ということが嘘だったのですから。

    実際、自然災害と違い、放射能で汚染された土地には誰も住みたいと思わないし、たとえ住みたくとも住むことはできないのです。眼に見えない放射能に怯え、家も田畑も家畜もそこにあるのに置いて逃げなければならない辛さ、状況は改善するのではなく時間が経てば経つほど、真実は露呈し悪循環の連鎖は増幅されています。

    ここには、不安と絶望の暗闇が広がるばかりで、どうやって生きていくのか身体の底からは湧き上がるものは、かすかなため息だけでしょう。

    この東日本大震災から、今まで知らなかった感じることの出来なかったことを私たちはたくさん学びました。

    私はそこに一番大きく関わっていたのが、身体性だと思っています。

    身体が地面の揺れを感じ、耳が津波の音を感じ、肌が風を感じ、鼻が荒れ狂う匂いを感じ、恐怖、驚き、悲しみ、怒り、絶望を感じ、交通の手段がなくなれば歩くしかなく、瓦礫の山は片付けるには労働するしかないのです。

    私たちはこんなに身体を実感したことは、なかったのではないでしょうか。この身体の実感には、疑いや嘘は入りようがないのです。

    ここから日本は、再生していかなければなりません。

    海外の人たちに賞賛されたように、日本人は我慢強さ、礼儀正さ、人への思いやりをたくさん持っています。

    だからこそ、日本人のこの身体性を次の世代に繋げていくことが今一番必要なことだと思います。

  • <プロフィール>
  • 身体哲学道場湧氣塾にて、チーフインストラクターとして現在に至る。 身体を骨格から捉え、身体の持つ限りなき可能性を日々指導しているなかで、 外部身体からのアプローチが内部身体へとつながり、内部身体の変化が自己の変化をもたらすことを知る。 「心の問題を、身体からでしか解決できない」ということをテーマとして、身体から心の世界を捉えみようと考えている。

  • <所長からの一言>
  • 身体哲学道場湧氣塾のチーフインストラクターの森菜旺未さんは、私の知る限りほとんど最悪のレヴェルの偏差を克服し、現在その経験を生かして呼吸身法の指導部の中心的な存在として指導に当っている。 いわゆる巫女的な資質ともいえる敏感な感性と女性にはめずらしい論理的な分析能力によって高いレヴェルの実践的身体哲学の能力、つまり身体知を体現している。 彼女には、女性や子供、また年配の人々への広範な身体の知へのめざめを導く、身体哲学の新しい実践の場を切り拓いてもらいたい。 身体哲学研究所副所長でもある。

堀井一弘・主任研究員

  • <東日本大震災についてのコメント>
  • 未曾有の被害をもたらした東日本大震災から二か月が経とうとしていますが、福島第一原子力発電所の事故の被害は収まりを見せず、有効な解決策をいまだ見いだせないまま、一向に先の見えない状況が続いています。

    このような人間の想定をはるかに超える天変地異や人災を前にして、過去の哲学者、思想家たちはそれをどのように受け止め、またどのような思想をたたき上げていったのでしょうか。少し唐突かもしれませんが、18世紀のヨーロッパにさかのぼり、当時の思想家の言葉に耳を傾けてみたいと思います。

    フランスの18世紀は、啓蒙思想家が華々しく歴史の舞台に登場し、絶対王政や教会権力の不条理な抑圧に対して苛烈なまでに反抗を表明しながら、人間の自由・理性の力を高らかに謳いあげた時代でした。やがてフランス革命を用意することになる、この時代の大きな地殻変動を察知するかのように、1755年11月1日、大地震がポルトガルのリスボンを襲いました。犠牲者三万人とも目されるこの大惨事の知らせは瞬く間にヨーロッパ全土を駆け巡り、啓蒙思想家たちの思想そのものにまで大きな影響を与えるほどでした。

    フランス啓蒙思想家のヴォルテール(1694-1778)はその一人です。ヴォルテールは『カンディード』という哲学的風刺小説を1759年に発表しますが、これは彼がジュネーブに滞在している最中にリスボン大震災の訃報に触れ、またそれに続く七年戦争によって多くの人間が犠牲となったことを受け止め、書いたものと言われています。

    『カンディード』は、ドイツはウェストファリア地方のある男爵家に生まれた、天真爛漫で無邪気な主人公カンディードが、ある些細な情事をきっかけに城を追放され、さまざまな苦難や不幸に見舞われながら世界各地を転々とし、最終的に彼の奉ずる哲学=「最善説(オプティミズム)」を放棄していく、という筋立ての小説です。

    この小説に、哲学者パングロスという男爵家の師傅が登場します。この哲学者は、ヴォルテールが小説を通じて徹底的に批判を浴びせかけようとしていた最善説の象徴ともいうべき存在です。当初カンディードは、このパングロス先生の教えを疑いもなく信じ込んでいました。

    パングロスの説く最善説というのはどういうものでしょうか。それは、現にあるこの世界が、考えられるあらゆる可能性の中で最善の世界として、神によって創造されたとする思想です。現に存在する諸々の悪も決して世界の善性を損なうものではなく、神の視点から見れば、全体の幸福に奉仕するものだと言うのです。もともとこの思想は、ドイツのライプニッツの哲学に端を発するとされています。

    カンディードは行く先々で、大地震、戦争、人身売買、宗教裁判、貧困、強盗、殺人などのありとあらゆる「自然の悪と道徳上の悪」(『カンディード』岩波文庫P.323)に翻弄されながら、最終的に最善説を放棄することになります。天災や人災に見舞われて罪のないたくさんの人間が死んだことも、全体の善という目的にとって単なるアクセントにしか過ぎないとするような浮世離れした思想を、いったい誰が受け入れることができるでしょうか。

    さて、カンディードが最後にたどりついたのは、コンスタンティノープル近くの海に面した農地でした。その近くでカンディードと一行は、「高名なイスラム教修道僧」(同P.453)と「一人の善良な老人」(同P.455)に出会います。修道僧は、この世に悪がかくもはびこっているのはどうしてかと問うカンディードとパングロスに対し、悪が存在しようと善が存在しようとどうでもよいこと、なすべきことは「沈黙すること」であると答えます。パングロスが理屈をこねようとすると、ぴしゃりと戸を閉められてしまうのです。(同P.454)その容赦ない態度はどこか禅僧を思い起こさせます。さらにその後、彼らは一人の老人に出会い、家に招かれ、もてなしを受けます。老人は、わずかな土地を子供たちと一緒に耕し、収穫物を町に売りに行くだけで満足している、そして「労働」は三つの不幸―退屈と不品行と貧乏―を遠ざけてくれると話します。(同P.455-456)

    この出会いがカンディードを動かしました。結局、壮大な形而上学を放棄した彼がたどりついたのは、小さな共同体の中で「理屈をこねず働く」ということだったのです。その後もパングロスは相変わらず、いかにこの世界が調和に満ちているかを説こうとしますが、カンディードは「お説ごもっともです。しかし僕たちの庭を耕さなければなりません」と突っぱねます。この言葉をもって物語は閉じられるのです。

    『カンディード』は極めてシンプルな筋立ての小説ですが、単なる風刺小説にとどまらないものを持っていると思います。未曾有の災害に見舞われた現在日本の私たちにとって、そして身体哲学にとって、何らかの示唆を与えてくれる小説であると言えます。以下、三つの観点から、この小説が示す思想とその意味を考えてみたいと思います。

    1.最善説と科学技術信仰

    哲学者パングロスが説く最善説は、現実においてどのような不幸、災厄が起ころうとも、最終的にはこの世界の善を最高度に完成させるものとして不可欠なものと見なします。それはちょうど、ある作曲家が、楽曲のなかで不協和音を登場させるが、それを効果的に使えば、最後の協和音によって最高度の調和とカタルシスを作り出せると言っているようなものです。しかしこのような超越者の視点を、いったい誰が現実に持ちうるというのでしょうか。有為転変する世界で生きる私たち生身の人間にとって、それは単なる観念論にすぎません。現実の不幸を体で受け止められず、現実の危機を体で感じることができず、頭の中だけで世界が完結してしまっているのです。実は「パングロス」という名前は、ギリシア語の「すべてを舌先で」という意味からきています。ヴォルテールは巧みに、軽蔑を込めて、このような名前の人物を登場させているのです。(同P.493)

    もちろんこの21世紀において、最善説そのものを無邪気に信奉するような人間はほとんどいないかもしれません。しかし、その心的傾向は至る所に顔を出してきています。今回の福島第一原子力発電所の事故を思い起こすまでもなく、度重なる原発事故や不祥事によって、原子力産業における安全神話の崩壊ということが言われてきました。それでもなお、科学技術によって戦後の驚異の経済成長を成し遂げてきた記憶からは容易に逃れられません。科学技術はいつかさまざまな問題を解決してくれると信じたいのです。ここには次のような心的傾向が隠れていると言えないでしょうか。「いろいろ不幸な出来事はあったが、科学技術が国家や人間の生活をより豊かにすることは確かだ。原子力も戦争兵器に利用された時代はあったが、平和的に利用すれば人類の未来は明るいものになるだろう。」あたかも幸福な結末が予定されており、不協和音は最後の協和音に至るために必要だったのだとする発想です。これを現代における最善説の焼き直しと言っても差し支えないと思います。神が科学技術に置き換わっただけであり、頭の中だけで完結している無邪気な(=candid)信仰にすぎません。

    2.「自然の悪と道徳上の悪」の意味

    カンディードが次々に見舞われる「自然の悪と道徳上の悪」は、フィクションとはいえかなり残酷で強烈なものです。最善説という哲学的立場を打ち砕くためだけに、かくも大がかりな舞台設定を行い、目を覆いたくなるような容赦ない仕打ちを執拗にしなければならないのはなぜでしょうか。もちろん、ヴォルテール自身が、不当な抑圧を加える旧権力や教会をぶちのめしたいという強烈な思いがあったことは確かでしょう。しかし、観念の世界があまりにも強力に人間を縛り、幻影を見せているため、そこから脱却するためには相応の鉄槌を必要とする―そういう穿った解釈もできるのではないでしょうか。

    「自然の悪と道徳上の悪」の描写には、ヴォルテール自身のリスボン大震災と七年戦争の経験が映し出されているわけですが、これを私たちの状況に当てはめるなら、東日本大震災(自然の悪)と、それに続く福島第一原子力発電所の事故(道徳上の悪)に比せられるでしょう。

    東日本大震災は、人間のいかなる想定も越える自然の猛威を、あらためて私たちに教えました。人間がいかに賢く振舞おうと、この現実世界に絶対に安全なもの、確実なものはないのだということを知らしめました。

    一方、原発事故は「道徳上の悪」ではないと考える人がいるかもしれませんが、戦争によって罪のない人が死んでいくのと同様、人災であると私は考えます。そもそも原子力発電は、自然にはおよそ存在しえない巨大な人為的装置を制御することによって成立しています。原子力システムがいくら精密に設計され、考えられうるあらゆるシミュレーションに耐え、安全性が確保できたと考えられたとしても、それが人間の手によるものである限り、危険性は決してゼロにはなりません。そしてその危険性は、地球上の生命に取り返しのつかない壊滅的な被害を一挙に与える可能性をはらんでいます。その上、原子力産業は商業的に成立してしまっており、市場経済の中に組み込まれ、様々な立場の利害が絡んでいるわけですから、方向転換することは全く容易ではありません。このように、明らかな危険を伴うものであるにもかかわらずそれを糊塗し、しかも社会の中に動かしがたいシステムとして原子力産業の構築を許してしまっていること自体、ある意味で、人間が人間自身に対して加える道徳上の悪と言えるのではないでしょうか。今回の一連の事故は、そのことをあらためて明るみにもたらしたに過ぎません。

    3.沈黙と労働

    さて、カンディードが最善説を捨てた先に見出したのは、「沈黙」であり「労働」でした。つまり「理屈をこねず働くこと」、ただそれだけです。あたまやことばの世界からの誘惑をかわし、四の五の言わずに身体を使う。最善説や科学技術への盲信を避けるための方法は、実はこうした、当たり前のことの中にあるのではないかと思います。

    ヴォルテールは18世紀の啓蒙思想家ではありますが、その人物が、一方で人間の理性の限界を示唆するような結論にたどりついているということは、大変興味深いことです。しかし21世紀に生きる私たちは、『カンディード』の結末をもって話を終わりにするわけにはいきません。啓蒙思想家たちが求められた時代はすでに過ぎ去り、旧時代の不条理な抑圧はとりあえずなくなり、ある程度の社会的自由や権利が保証されているこの時代において、カンディードたちのように世間から背を向け、小さな原始的共同体の生活に回帰して、ささやかな土地を耕して生きていくというのは現実味を欠いています。東日本大震災を経験した今日の私たちが必要とするのは、それに代わる物語であり、智慧でしょう。

    身体哲学が提案しようとしているのはそのようなものです。単なる観念論に陥ることないバランスのとれた智慧、天変地異に見舞われてもしなやかに生き抜くための身体知の実践です。

  • <プロフィール>
  • 2002年北海道大学文学研究科修了(哲学)。 同年ドイツ・フライブルク大学博士課程に進学し、現象学および中世神秘主義を研究する。ドイツ留学中に座禅に出会い、東洋の行法が豊かな可能性を持つこと、西洋哲学の限界、また身体を無視した従来の文献研究一辺倒の無意味さに気づく。 2007年帰国後、『阿修羅の呼吸と身体』に導かれて湧氣塾に入塾。 現在の関心は、「呼吸身法と神秘主義」、「呼吸身法と悟り」。

  • <所長からの一言>
  • 堀井君は大学と大学院で西洋の哲学を学び、さらに本場ドイツでハイデガーの研究を続けていたとき禅に出会った。 おそらくその禅との出会いによって彼の中で日本人として本当に哲学する心が芽生えたのだろう。 その後本格的に身体で哲学する道すなわち現代の行法を求めて私の身体哲学道場の門をたたいた。 彼には西洋の哲学的ロゴスによってどこまで東洋の行法的世界に迫ることが可能かに挑戦してもらいたい。

槇島篤・研究員

  • <東日本大震災についてのコメント>
  • 今回の大震災を天からの警告と捉えるならば、私たちはまさに今日本の大転換となる歴史の節目に立ち会っていると言えるでしょう。

    自分を含め果たしてどれ程の人がその意味する所を正確に感じ取るだけの身体性を備えているのか、はなはだ不安ではありますが…。

    直接の被害当事者でない我々にとって、最も恐ろしいのは、時間の経過と共に少しずつ衝撃が遠ざかり、いつもの日常に埋没してしまう事。

    復興に必要なのは行動です。それも無心の行動だと考えます。

    これは、まさしく身体性が問われる問題で、小賢しく頭が邪魔をしてしまった場合、旧態依然への後戻りとなりかねません。

    それは、大げさに言うならば日本の没落を意味しています。

    もし、今後10年が復興に留まらず、殻を脱ぎ捨て、脱皮するかのごとく発展できれば、当然のごとく日本は大きく飛躍するでしょう。

    日本人の真価が問われています。

    行動は力。

    無心の行動には個人のみならず多くのものを浄化する力があると思います。

    身体哲学がその基盤となる事を望みます。

  • <プロフィール>
  • 鍼灸師、理学療法士、呼吸療法認定士 フェルデンクライス・メソッド・プラクティショナー 医療現場の中で自分自身の身体的不調に対処出来ない者が大きな顔をして人を診ている事に疑問を持ち様々に模索する中で『阿修羅の呼吸と身体』に出会う。2008年呼吸身法に導かれるまま湧氣塾スタッフに加わる中で身体と人の生き様の関連性に気付かされ苦悩すると共に身体哲学の重要性を日々認識している。

  • <所長からの一言>
  • 槇島君は理学療法士としてまた鍼灸師として長く医療の現場にいて様々な医療、医術の矛盾に直面してきた。 診断するだけではなく本当に身体を直す医術とはどういうものかということである。 これは、現代人における認識論と存在論の混同だといってもいいとても大切な哲学的テーマである。 彼には私の実践的身体哲学(呼吸身法)をベースにしたしっかりとした医術を身に付け、医療現場での変革を目指してもらいたい。

福守隆行・研究員

  • <東日本大震災についてのコメント>
  • 1.東日本大震災と原発事故

    2011年3月11日、M9.0という史上最大級の大地震が東日本を襲い、それに続く大津波が東北地方沿海部に押し寄せ、死者・行方不明者2万人以上を出す大災害となりました。亡くなられた方々にご冥福をお祈りするとともに、被災された方にお見舞い申し上げます。また、この東日本大震災により、首都圏の交通機関が運航を停止し、多くの通勤者が帰宅困難になり、首都圏も非常事態の様相を呈しました。

    この巨大地震と津波は、福島第1原子力発電所(以後福島原発)の機能を麻痺させ、水素爆発や炉心の溶融(予想)を引き起こしてチェルノブイリに次ぐ放射能漏れ事故(チェルノブイリ以上の事故という説もある)を誘発しました。現在、原発から20Km圏内の住民は避難を余儀なくされています。報道では、5月1日現在で原発炉心部の破損状況の正確な把握は出来ておらず、日々、放射性物質を放出し続けています。また、福島原発停止による電力不足から、東日本は節電を余儀なくされ、広い意味で震災は未だ継続中です。この原発事故の誘発は、東日本大震災が過去の大震災と大きく異なる点です。

    2.天災か、人災か

    一つの問いを立ててみます。この原発事故は、対策の取りようがない天災なのでしょうか、あるいは、十分な対策を打たなかった人災なのでしょうか。単純化して大枠で考えてみましょう。

    リスク管理の観点を導入して、天災と人災に分類するなら、先ずはこの規模の地震・津波を起こり得るリスクとして想定できていたかどうかが基準になるでしょう。原発の設計・見直し時に、人智を尽くしてもこの規模の地震・津波を想定できなかったのなら、この大震災は、対策の取りようがない天災に分類され、想定していたにも拘らず対策が十分でなかったのなら、ひとまず、人災に分類されるでしょう。

    しかし、人が出来ることには限りがあるため、たとえ想定できたとしても、確率論的な許容範囲の設定や技術的・経済的等の制約は避けられません。そしてその確率や制約を超えて、一回性の事実として起こってしまうような災害はあり得ます。この種の災害の場合、想定できたとしても人には制御しきれないと判断されたもので、人災というより人智を超えた天災に準じて整理されるべきでしょう。今回の大震災が福島原発の実際のリスク管理のプロセスで想定範囲内のものだったのか、対策が適切だったのかといった天災か人災かに関わる評価は今後の経過の中で行われていくでしょう。しかし、ここではいくら精緻にリスク管理をしても人智では制御できない天災は起こり得るということを確認することで十分とします。

    3.本質安全、制御安全

    次に失敗学の本質安全、制御安全という考え方を導入してみます。本質安全とは、リスクが顕在化しても、致命的な被害にはならない状態を指し、制御安全とは、技術的な制御によってリスクが顕在化しないようにした状態のことです。そして失敗学が示唆する技術が目指すべき目標は、本質安全です。制御安全は補助的なものと考えます。なぜなら、制御技術には想定漏れなどのリスクがつきもので絶対的なものではないからです。この考え方を原発に適用するなら、放射能は生物にとって致命的なものであり、また、一旦事故が起こるとその放射能の影響は空間的にも時間的にも広範に及ぶことから、本質安全はありえないことになります。原発の存在自体が、地震や津波の想定やその確率論的許容範囲の設定等も含めて、全て制御安全を目指したものです。失敗学が示唆する技術が目指すべきは本質安全であるという格律からすると、原発はその格律からそもそも逸脱しており、その制御安全上の諸条件を議論する以前に、致命的な失敗・事故を内包していると言えるでしょう。

    4.9.11、狂牛病、福島原発事故

    東日本大震災の発生日、3.11と9.11の類似性に驚かされますが、今回の大震災のちょうど9年半前の2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起こりました。また同じ日に日本では狂牛病の牛が発見されました。これらの事件には、「豊かな社会」・「圧倒的優位に立つグローバル化した先進国の科学技術・制度・価値観」に対する「貧しい社会」・「劣勢に立つ原理主義」の報復、「家畜に家畜の肉骨粉を食べさせるカニバリズムを内包した科学技術・制度」に対する「自然の摂理」の反逆という側面を見てとることができました。

    ほぼ10年後に起きた東日本大震災に誘発された原発事故は、9.11のテロや狂牛病に見られたのと同様の構図・・・「圧倒的な科学技術を駆使して原子力という自然(生物にとっては反自然)を制御できると信じてきた先進国社会の価値観」に対する「自然(大地震・津波という自然も猛威とそれによって人的制御から解放された原子力という自然の二重の意味で)の反逆」という構図・・・が見てとれます。

    これらの事件や事故で自然や貧しい社会から共通して反逆・報復の対象となっているのは、先進諸国で広く認められる高度な科学技術を背景とした資本の原理に基づく運動のうち、自然の摂理から乖離したり、異文化を圧迫することに結果するようなものであるように思います。

    5.身体という自然

    東日本大震災が誘発した原発事故が我々に提示している教訓は、人類にとって致命的になり得る原子力を人は制御しきれるという信念は誤りだったということでしょう。制御技術は、失敗から学ぶことでより高度なものになるでしょう。しかし、失敗学の言う本質安全が得られず、制御技術が絶対になり得ない以上、事故は内包され続けます。

    制御技術の進歩により今後事故は起こらない、原子力の利用により経済が潤う、原子力は他のエネルギーより優れているといった様々な主張があるでしょう。技術的、経済的な事柄を含む多岐に亘る主張を頭で考えれば、迷いも出ます。だから自分にとって本当に正しい判断だと感じられるように、自身の健康を考え、身体という自然に耳を傾けることが大切になると思います、自然から反逆される前に。

  • <プロフィール>
  • 1965年生まれ。早稲田大学大学院修了、米国にてMBA取得。 現在、都内企業に勤務。 学生時代に、勇崎所長の教えを受ける。2007年に『「阿修羅」の呼吸と身体』に出会い、勇崎所長に再会。呼吸身法の修行を通じ、半月板の手術により十分に曲がらなかった膝が曲げられるようになり、正座・結跏趺坐ができるようになるなど、身体の変化を実感。さらに行により開発された身体を通じた知の探究をすべく参加。

  • <所長からの一言>
  • 福守君とは彼が早稲田の学生である時からの長いつき合いである。 彼はおっとりした性格の中にねばり強い芯があり、日本人にはまれな明るい”陽”の氣にあふれる身体性の持ち主だ。 今は金融関係のサラリーマンをやっているが一生サラリーマンをやっているが一生サラリーマンで終る男ではない。 哲学的思索力、クールな実業家の見識、さらには神秘的な感受性ももっている。 彼には狭い日本の壁を乗り越えた、国際的、宇宙的な共感を呼ぶ身体世界の構築をめざしてもらいたいと思っている。

山形晃司・研究員

  • <東日本大震災についてのコメント>
  • 大地震が起きた時私はビルの24Fにいた。最初はそれ程驚いたわけでもなかったが、いつもでも揺れがおさまらず、少し身の危険を感じた。そしてその後この東日本大震災の被害は甚大なものとなった。

    私は東京に住んでいるが、3月11日以降の日本は、やはりなにかが変わってしまったように感じる。

    確かに今、日本はみんなの力で頑張ることが必要だ。でも、なにを、どのように、これから頑張ればよいのだろうか。これから日本が復興する上で、直接的被害からの回復を図ることが第一優先なのはまちがいない。だがその先は、どこに向かって頑張っていけばいいのだろう。

    バブルがはじけた1990年代以降、日本は、経済大国としての地位を保つため必死にもがき、頑張り続けてきた。今や中国などの新興国と比べその勢いの差は歴然であるが、またGDPで中国を抜き返そうと頑張ればよいのだろうか。日本は世界的にみれば、衣食住という人間が生きていくための基礎的条件は大変恵まれている。そしてその環境に我々は慣れきっている。少し電気が使えないだけで、大変な騒ぎだ。もちろん私も日本の恵まれた環境を手放したくはない。

    でも本当に今まで通りに生きていけばよいのだろうか。衣食住をはじめとする外部環境の発展よりも、人間にとっての内部環境である身体を充実させることに価値をおく生き方を追求することこそが、今、必要とされているのではないか。

    ここしばらくの日本は、外部環境と内部環境の平衡が崩れていたのではないかと思う。人はなかなか変われないが、健全な平衡感覚を取り戻すために自分=身体を養い充実させ、そのことによって外部環境を変えることができるように、私は頑張りたい。

  • <プロフィール>
  • アメリカ型資本主義の限界が叫ばれる中、新しい経済システム構築の必要性があるとの問題意識を持つ。商社や投資会社でのビジネスの実体験を踏まえ、身体哲学を根本原理とした21世紀にふさわしいビジネス思想を研究。

  • <所長からの一言>
  • 山形君はユニークな学部としても有名な一橋大学の社会学部の出身で、広く文学、哲学、経済学、思想などに問題意識をもち、現実社会を常に高い視点から眺めながらビジネスマンとして社会の一線の現場で身体的直観を発揮している。 私の身体哲学に早くから共鳴して、最近ではかなり確かな呼吸力を身に付けてきている。 彼には社会を実際に動かす実践的な身体哲学の展開を期待している。

森和保・研究員

  • <東日本大震災についてのコメント>
  • 2011年3月11日に起った東日本大震災は被災地、ひいては日本に壊滅的な被害をもたらしました。

    1000年に一度といわれる大地震が科学・テクノロジーの進歩した21世紀の現在、先進国の中でも経済的に豊かで平和な日本で起きたことで様々な問題が浮き彫りになりましたが、根本的な問題は、私たちのこれまでの生き方を見直し、これからの生き方について考え、そして変えていかなければならないということでしょう。

    日本は、今から66年前の第二次世界大戦により焼け野原となった悲惨な状態から、世界第二位の経済大国になるまでの驚異的な復興を遂げました。最近でこそ世界第二位の座を中国に明け渡し、経済は低迷を続けていますが、それでも都会には人が溢れ、高層ビルが林立し、道路や鉄道など交通は整備され、水もあれば電気もあり、ほとんどの国民が衣食住に困ることなく生活できる豊かで平和で安全な国の象徴としてあげられるようにまでになりました。しかし、その一方で、自殺者が年間3万人を超え今もなお増え続け、うつ病などの精神疾患を抱えている人が大勢いるなど日本全体に閉塞感が漂っているという現状は、生きていることそのものがどこか希薄になってきていることを伺わせています。

    そんな折に今回の大震災が起りました。

    自然といういつ何が起きるかわからない死と隣り合わせの環境から、身近な危険を排除し、自然と隔離した自分たちの住みやすい社会を築いてきた私たちは、いつしか自分たちの考えられる範囲のことだけに注意していれば大丈夫、つまり、生きていく上で命の危険を感じることがほとんどなくなりました。物が溢れ、ほとんどあらゆることが満たされ、命の危険を感じることなく生活できる、生きることが当たり前になってしまったときに、生きていることのリアリティは失われます。

    さらに、今の日本で生活するということは、安全圏で管理されているのに近い環境なので、自分たちの考えられる範囲のこと以外のことについては、漠然と社会なのか、国なのか、科学なのか、機械なのか、とにかく“自分以外の何か”が守ってくれるだろうという考えが知らず知らずのうちに蔓延しています。しかし、本来、自分の命は自分で守らなくてはならないものです。やはり生きている以上、いつ、どこで、何が起きても、それに対応できる身体と心構えを持ち、自分で物事を考え判断して行動するということが必要不可欠でしょう。

    そして、“自分以外の何か”というのもやはり人間が考えてやることだということを忘れてはいけません。いくら人間社会を高度でハイテクな文明に築き上げたところで自然と全く乖離して生きていくことはできない以上、人間の考えた想定内の出来事ばかりではなく、今回のように人智を超えた想定外の出来事はいついかなるときも起り得るということです。

    生きていくことが本質的にどういうことであるかということと、人間の考えられることには限界があるということを改めて教えてくれたのが、今回の大震災だと思います。

    特に後者については、今もなお予断を許さない状況が続いている福島第一原発事故がそのことを物語っています。

    原子力を取り扱うということは、100%の安全が保障されなければなりません。事故が起き、放射性物質が漏洩してしまったときに、ほとんど為す術がない上に、環境に甚大な被害をもたらすためです。環境や周囲の動植物への被害については全く報道されませんが、この事故で一体どれだけの生命が失われているのか検討もつきませんし、放射性物質に侵された地域が今後数十年~数百年に渡り立ち入ることができないという未来の世代にまで大きな重荷を残す結果となってしまいました。

    その上、この被害に対して、私たちは何の責任も取ることすらできません。失われた生命は二度と戻りませんし、その地域がまた今まで通り使えるようになるまでただ時間が経過するのを待つだけです。

    この事実を私たちは謙虚に受け止め、より安全に原子力を使っていくというような私たち人間本位の都合ではなく、人間も地球の一部であり、環境や他の生命に対して配慮して未来に繋いでいくというスタンスで物事を考えていかなくてはならないでしょう。

    資源・エネルギーの問題は、私たち人間にとってとても大きな問題ですが、今までのように経済活動を第一において、限りなく消費・浪費するのではなく、資源・エネルギーは限りあるものとして、限られた中で必要な物を必要な分だけ分かちあいながら使っていくというように大きく方向転換していくことが必要なのではないでしょうか?

    インディアンのことわざで、「どんなことも7世代先まで考えて決めなくてはならない」ということわざがありますが、いつしか私たちは自分たちさえよければいいという頭でっかちな発想、いい換えれば人間の知のおごりで、本質的に生命原理に反した生き方を選択してきてしまいました。しかし、次の世代に歴史と資源と生命を引き継いでいくことは、今を生きる者の務めです。

    そのためには頭だけ使って生きるのではなく、もっと積極的に身体を使って生きていることを実感できるように、本来あるべき身体感覚を取り戻していかなくてはなりません。身体(=生命)に立ち返って生き方を考えていけば、自ずと環境や他の生命、そして未来の世代についても考えた生き方ができるはずです。

    私たちは、地球が誕生してから46億年間、脈々と受け継がれてきたバトンの担い手であることをもう一度自覚し直して、また新しい時代を築いていくためにスタートしていきましょう。

    身体哲学研究所では、そのための身体を取り戻し、一人一人が自分自身の生き方を身体を通じて考えていくということがどういうことなのかを示していきたいと思います。

  • <プロフィール>
  • SE、介護士を経て2008年2月より湧氣塾のスタッフになる。 SEという頭の世界から、介護士という身体の世界に身を投じ、生きていく上で、身体の重要性を身を持って体験した。 呼吸身法を実践してきたことにより、自分自身の身体が確実によりよい状態に変わっていくことを実感すると共に、身体が変わることで、人の生き方をも左右することを学んでいる。 呼吸身法によって引き出される限りない身体の可能性を自己の身体を通して実証することを目指している。

  • <所長からの一言>
  • 森君は唯一人二十代の研究員である。 理科系の大学を卒業後、ソフト関連の会社にシステムエンジニアとして就職したが、人間よりもテクノロジーを優先するその業種の未来に限界を感じ、生身の人間をあつかう介護士として人生の再出発を期した。 しかし、老人や病人を介護することには知識も経験も足りない。 呼吸身法を実践することで、ともかく、人間の身体を自分の身体を通して知ることが一番の道だと気づいた。 二十代でこのことに気づくことは大変すばらしいことだ。 若い豊かな才能が身体哲学研究所から育つことを期待したい。 将来、身体哲学道場をしょって立つ人材として現在、日々修行に明け暮れている。